高校1年生から大学卒業までの夏休みと冬休みのほとんどの期間を北海道で過ごしていた。目的はもちろん写真を撮ること。どうしてもどうしてもカメラマンになりたかった。そのころ撮影していたのは鉄道(俗に言う鉄チャンです)と人物と白鳥です。普段は毎日学校が終わると小石川郵便局(うちの高校大学の近くでした)でカイカンと呼ばれる郵便車の乗ってポストを開けて郵便を回収して廻るバイトをしていました。そのお金をためて写真機材、フィルムを買い北海道に撮影に行きました。当然貧乏旅行なので前にも書いたように白鳥の餌に買ったパンのくずを自分で食べていました。当然東京で学校に行っている時お金がないので喫茶店や大学生になっ てもコンパなんかほとんど行けませんでした(いわゆる暗い学生です、当時雑誌ポパイやブルータスが出てきてだんだん大学生がファッショナブルになっていくのでしどかったです)
北浜原生花園ユースに来たのは大学1年ぐらいでした。ここには当時沢山のカメラマンのタマゴたちが泊まって(どちらかと言うと寄生していました)いました。皆とても貧乏でしたが楽しく元気に撮影していました。そのころこの2階から夜明け前におきて今日の天気はどうかなーなんて見ていたり、「寒いから撮影行きたくないな~」とか「腹減った~白いご飯が食べたいな、白鳥美味しいかな~」なんて恐ろしいことも思ったりしていました。でも毎日どうしたらいい写真が撮れるか、どうしたらカメラマンになれるか本当に寝てもさめても考えていました。そしてこの窓の外にトーフツ湖そして斜里岳が見えていました。そしてその向こうに北の大地、そしてそのはるか彼方にオーストラリア大陸が出てきました。当時の自分が今の自分のオーストラリアで風景を撮影していると言うのを知ったら腰を抜かすぐらいたまげるでしょう。それくらい当時は海外撮影なんて夢のまた夢、たぶんいまチョモランマに撮影に行くぐらいかそれよりも大変だったイメージがあります。しかも風景。当時風景写真はほとんど撮影していませんでした。しかもバイクにも乗っていなくて(バイクイコール 暴走族というとんでもない固定概念を当時持っていました)だからバイクで旅するというのも信じられませんでした。
そういえばバイクの旅に目覚めさせてくれたのもここのユースのヘルパーさんでした。つまりここは全ての僕のたびと写真の原点で、ここがカメラマンとしての出発点でした。そしていつもここで写真を撮影していた時のことを決して忘れないようにしています。僕には写真の師匠という方がいません。ただもし師匠と呼べるものがあるとしたらここのユースの談話室でたむろしていたほかのカメラマンの卵たち皆が僕の師匠であり、仲間であり、そしてライバルでも会ったのかもしれません。そしてここの北浜を取り巻く大自然も師匠だったのかもしれません。おうおうにして世のなか先生と呼ばれるようになると終わってしまうカメラマンが多いので、いつでも僕はここで白鳥の餌を食べながら仲間とバカをいいながら撮影していた時代を忘れないようにしています。もしそれを自分自身が忘れた時はカメラマンとして破滅かおしまいのときです。
むかし自転車でここに来た時と同じ場所にいまはゲルマン民族2気筒バイクがたたずんでいるのを見ると月日が流れたんだなと実感します。でもここに来ると心はいつも20数年前の自分に返ります。そして当時使っていたニコンF2は今でも一緒に世界を旅しています。
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