十数年ぶりに古い友達がオーストラリアから来た。彼の名前はJulian。建築家で、東大でドクターをとっている
彼と出会ったのは1991年 NECのオーストラリアロケでモデルとして東京で出会った。当時彼はノバの英語の先生でワーキングホリディ―で来日していた
そのごアデレード大学を卒業して、アメリカのバークレイ大学に学び、東大でドクターをとったのち、早稲田大学でも教鞭をとっていた。
実は彼はOLD Adelaid Familyと呼ばれるオーストラリアの名家の生まれ。そのわけは彼のひいおじいさんHans Hisenと呼ばれるオーストラリアの国民的画家で(日本でいえば東山魁夷みたいな感じ) 南オーストラリアのフリンダースレンジと呼ばれる山並みを中心に開拓時代の絵画を描いていた。実はJulianとNECのロケでシドニーのハイアットリージェンシーに泊まったとき(当時はバブルでロケ予算は潤沢)、ロビーに飾られている絵画を見て、彼が「この絵は僕のひいおじいちゃんが描いたものですよ」と説明してくれた。それを聞きつけたホテルのジェネラルマネージャーが彼の所に来て、Hysen氏の曾孫さんに泊まっていただき、当ホテルも光栄ですと言われ驚いた
そのご僕はフリーランスとなりオーストラリアを撮影するとき、南オーストラリアでの撮影では彼と彼の家族 友人が全面的にサポートしてくれた。90年代の作品は彼のサポートの力が大きい。特に1999年のFUJIFILM Provia100Fの全世界プロモーション撮影は彼の友人の力なくしてはなしえなかった
そして彼はオーストラリア人の最初の友人であり、僕の作品の最初の理解者でもあった。特にユークラの大砂丘群の作品を大きく評価してくれた。有名な場所ではなく、日常の見過ごしてしまう風景の中から自分だけの世界を見つけないと作家として埋没してしまうよと、アドバイスしてくれた。その視点がEarthrait 地球のポートレートにつながっていく
2003年 オーストラリアで初めて個展を開くために、オーストラリアナショナルアートギャラリーのキュレーター Pattさんにプレゼンするとき「しっかり理路武装していくように自分の作品コンセプトを固めるだけではなく、写真史はもちろん だが日本の美術史もしっかり勉強しておくように。きれいだからシャッターを押したと答えた瞬間にプレゼンは終わる。この写真家は表面しか見ていないのかと判断されるからだ」とアドバイスしてくれた
そして現実のプレゼンはまさにその通りだった
カメラ機材やテクニックは何も聞かない 厳しい世界だった
そんないろいろな40年近い 流れを昨日思い出した
Julianまた写真とアートの話をしよう
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