
LUMIX S1R+LUMIX70-200mm
又兵衛桜 蕾 奈良県

Nikon D3+Nikkor 14-24mm
奥入瀬渓谷 月の夜
昨日まで奈良県 大宇陀にある又兵衛桜さんに伺ってきた。そろそろ蕾が赤くなる時期。満開までは程遠い。だが僕は撮りたかったのは、満開の桜ではなく、大地から吸い上げたエネルギーを蓄え、いまかいまかと開花を待つ樹の力強さだった
良くプロでもアマチュアd目お満開満開と騒ぐ。気持ちはわかる。でも満開はもうエネルギーを放出し待った時。そして生命の流れはそれだけではない。盛りが一番ではないと思う。特に作品を撮る場合はなおさらだと思う。観光用のポスターであるならば商業用であるから満開は大事だと思う。でも作品となると話は別だ。これは紅葉ににも当てはまる。よく紅葉のピークがまだだから僕はシャッターを押さない。あるいはもう、ピークは過ぎたの今シーズンの撮影は終わった。いっけん カッコイイ。さすがプロだなと思う。でも裏を返せば視点が狭い、貧弱、自分なりの美学あるいは世界観がないことの裏返しになる。
上の夜の奥入瀬の作品。紅葉シーズンの終わりというか、もう初冬に撮った。理由は葉が落ちないと、月の光が水面まで照らしにくい。あと最後の秋の色を表現したかったので、秋の終わりに狙った。夕方ロケハンをしていると地元のアマチュアのお方が「東京から来たの?紅葉終わっているよ!、えっ晩秋? 俺はもっといいの撮ったよ?」 話がかみ合わない。盛りの紅葉や桜の満開 それはそれですごいと思う。撮れれば楽しい。でもそれとは違う世界観もある
『風姿花伝』を書いた世阿弥も、2〜13歳の少年は、稚児の姿といい、声といい、それだけで幽玄を体現して美しい、と、この年代の少年には、最大級の賛辞を贈っていると書かれています(他所からの引用) また盛りを過ぎた老年期に関しても
「このころよりは、おおかた、せぬならでは手立てあるまじ。麒麟も老いては駑馬に劣ると申すことあり。さりながら、まことに得たらん能者ならば、物数は皆みな失せて、善悪見どころは少なしとも、花はのこるべし」(もう花も失せた50過ぎの能役者は、何もしないというほかに方法はないのだ。それが老人の心得だ。それでも、本当に優れた役者であれば、そこに花が残るもの。)
この文章に続けて世阿弥は、観阿弥の逝去する直前の能について語っています。観阿弥は、死の15日前に、駿河の浅間神社(せんげんじんじゃ)で、奉納の能を舞いました。
「その日の申楽、ことに花やかにて、見物の上下、一同に褒美せしなり」
「能は、枝葉も少なく、老木(おいき)になるまで、花は散らで残りしなり」
観阿弥の舞は、あまり動かず、控えめな舞なのに、そこにこれまでの芸が残花となって表われたといいます。これこそが、世阿弥が考えた「芸術の完成」だったのです。老いても、その老木に花が咲く。それが世阿弥の理想の能だったのです。(他からの引用)
老木になっても花を咲かせる生命力 姿立ち振る舞い それが大事です。
それは桜や紅葉だけではなく写真家も同じです
自分がこれと思った被写体、盛りだけではなく、その前後の時間と、自然界のエネルギをどう受け止め、それを自分の世界観でどのように昇華させていくかそれがプロの視点であり世界観だと感じます。ただただ満開だけを作品しては、良いとこどりの展示会です。誰もない時 誰も目を止めない時に、被写体と向き合い、話をし、一心同体になる。これが作品作りの基本と思います
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