検疫

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オーストラリア  シンプソンデザート

撮影でよくオーストラリアに行きます。隔絶された大陸 オーストラリアは検疫が厳しいです。入国時 ほかの大陸からの食糧はNGさらに靴やアウトドア用品等に土がついていると、空港で洗浄や消毒させられます。それぐらいきびしくしないと、この固有の大陸は守れないからです。入国審査は税関とは言わずBorder Forceという部署で行われます。それぐらい厳しく、世界丸見え特捜部などのテレビ番組でも、オーストラリアの入国の厳しさをしばしば取り上げています

そして僕の行く奥地は、ロスリバーウイルスなど、いまだに未知の病原菌もあると言われています、なので自分の健康管理と検疫ルールをしています

そしてもちろん日本に帰国したときは、空港から荷物を運んだ、自分の車の車内に供物を入れたまま、消毒剤(バルサン等で)荷物についている虫等を駆除しています


まだ母が生きているとき、特別養母老人ホームに入っていました。帰国後 1週間はホームに行かないことにしていました。ホームのスタッフマネージャーさんから「どうして帰国したのにお母様に会いに来てあげられないのですか?」と聞かれたとき「もし僕が熱帯病の潜伏期間あるいは未知の病原菌を持っていたら、パンデミックで老人ホームは全滅するのでいけないです」とこたえると。「それは正しい判断です」と言われました。でも友人とか何人かは「少しぐらいは行ってあげたら、お母さん待っているよ」と言われましたが、個人の感情で災害を招きたくなかったです

幼稚園の時、法定伝染病しょうこう熱で隔離入院したことがあります。約1ヶ月半。ある夜熱意が下がらず両親と病院に行くと、しょうこう熱の疑いがあると感染症病院に救急搬送。完全隔離なので病院の入り口で両親はシャットアウト。人生初の親と離れての暮らし。とうじたしか5歳でしたので、深夜の病棟で泣いていると、隣のベットの樽井君という男の子から「ここは泣いてもいい子にしても病気が治るまで帰れないんだよ」と言われました。週に1度だけ、防護服を着た両親と1時間の面会がOKでした。当時、都内で子供の間でしょうこう熱が流行っていたので、完全隔離は仕方がなかったです。

当時看護婦さんから「正明君が、泣いたからお家に帰ると、もっとたくさんのお友達が病気になって、みんなが泣いちゃうよ」と言われました

また当時の日本 1963年ごろはいまよりも衛生状態が良くなかったので、なおさら厳しい対応だったと思います。今回のコロナウイルス、まだ根本が謎なので、厳しいようですがパンデミックを防ぐためには、早めあるいは疑いのある場合の隔離は仕方がないと思います。隔離はかわいそうとか、思いやりがないと言って、蔓延して死者が出たらもっと悲しいです。

子供のころの隔離で得た教訓は「世の中良い子にしても泣いてもどうしようもないことがある」ということでした 笑



今回のコロナウイルス、まだ何も本当の真実の原因 対応対処方法がわかっていないみたいなので、この場合は少し厳しく残酷かもしれませんが、個人の希望や感情よりも、世界全体の保全ということを考えて隔離あるいは隔離の勧めをしたほうが個人的にはよいと思います。もし自分が、同じ立場になったら、迷わず隔離されます。無理して家にいて、病気を蔓延させ誰かが亡くなったら、そのほうがよりつらいです。
早くこのウィルスの災いが収まることを祈ります

ちなみに記事と写真は関係がありません


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by masabike | 2020-01-30 08:08 | | Comments(0)
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