ランドスケープを考える

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LUMIX GH5+LEICA8-18mm


これから2週間 西オーストラリアの荒野で大地と空と対話しながら、地球のポートレイトを撮らせていただく。日本では信じられない、強烈な色と光がある。そしてフラットな大地は、太陽が地平線のかなたに、逃げるまで、素晴らしい斜光をレンズに投げかけてくれる。

写真展ではしばしば「これ本当に撮ってだし?」と聞かれるが、ほぼ撮ってだしである。若干だけプリントの時に、濃淡や明るさを調整するが、微調整のレベルだ。カラー作品に関しては、ガンガンに画像処理は使わない。良い光や色を、待つ、探す、降りてきてもらう。この3つが大切だ。現実にない色やトーンを作品にして、ランドスケープフォトと呼べるのかどうか?心象色が逆作用した悪い例かもしれない。

ではコンテンポラリーアートはどうかというと、彼らは頭の中でこうしたいという、絵コンテと設計図が出来上がり、それに合わせて撮った作品を素材として加工している。ただやみくもにいじったり、あるいは撮れなかったから色を乗せかというわけではない。そこを勘違いしないで欲しい。夕陽を待ったけど、あまり色が変わらなかったからPSで赤くしましたとは、次元が異なる話だ

あとではモノクロームはどうかというと、モノクロの時点で現実世界とは異なるので、これをいじるというのはフィルム時代から当然だった。色がある世界を黒から白のグラデで表現すること自体が現実ではない。だから加工するのは当然。カラーとは違う世界観だ。カラーで撮った作品をモノクロにする場合、よほど視点を考えないとh難しい

いま、あるカメラ雑誌で写真家・米未知子氏が過剰なレタッチをしてよいのかという記事が話題になっている。それはとてもうなずける。フィルム時代、こう撮れたらよいなと、言う作品がとれるまで粘る、あるいは何度も通うが当たり前だったが、今は撮れなかったら後で画処理しようになってきた

これでは残念ながら、心に残る作品は難しい。目先のネットの「イイネ」を優先として、作品性が後になっている気がする。目立たせる写真ではなく、20年後 30年後も心に残る作品にしたい。


せっかく大地が見せてくれる地球のポートレイトを、ぼくはなるべく加工しない。素材の良さ、鮮度の良さを生かしたい。寿司と同じだ。もしかしたら僕のEarthraitSushiテイストかもしれない。風景撮影、待つこと耐えること、これが基本だと思う



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by masabike | 2019-09-04 22:19 | 写真アート | Comments(0)
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