コンセプトのない撮影は台本のない映画みたいなもの

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Carl Zeiss Otus 55mm+Nikon D800E


最近のインスタ映え、ある意味写真が生活に密着また溶け込んでよいことかなとも思う
でも普通の人のみならず、プロあるいは作家の人まで、単に目立てば良い的な発想、風潮になっているのと、あまりに作品展でコンセプトがない写真が多いので不安に感じる年の瀬です


もちろん自分でも注意しないと、目立てば良いあるいはプロでやっている実績があるから簡単な展覧会はこれぐらいで良いや!という他の人と同じことにはまる危険性があるのでいつも、戒めています

自分でも自分の本を読み返した今朝です。そこで「ランドスケープフォトの極意」から抜粋です


海外でのギャラリーのプレゼンテーションでは、真っ先に「あなたの作品のコンセプトはなんですか?」と聞かれます。過去の受賞や、師匠が誰か、カメラはなにかなんて間違っても聞いてきません。それは、コンセプトがあるから撮影し、作品になり、その結果、コンセプトに基づいたストーリーが出来上がったから、写真展のプレゼンにという考えです。もし、コンセプトがなければ、この写真家は目の前の偶然だけでシャッターを押しているシャッターマンになってしまいます。だから、まず第一にコンセプトを聞き、それに対していくつもの質問を浴びせてきます。僕がオーストラリアで撮っているときに決めたコンセプトは「地球のポートレート=アースレイト」です。オーストラリアの奥地の無名の荒野、あるいは、誰も知らないビーチ、みんなが見逃してしまいそうな立ち枯れの木や水たまり、さらにカミナリ、スコールなど、有名地を撮った写真とかけ離れていました。撮影しているときにも、まだコンセプトが決まる前、なんでこんな荒野を撮影しているのだろうと考え、悩んでいました。答えはどこにあるのかわかりませんでした。でも、ある朝、答えはコンセプトと書かれた光のパッケージになり、砂漠のテントの前に落ちていました。オートバイで砂漠の横断も佳境のころ、オーストラリア中央部の砂漠で丘の上でテントを張っていました。夕刻、自分の左手西側に日が沈みます。右手から月が昇ってきました。荘厳だけどこれから不安な長い夜の訪れの始まりです。朝4時か5時、右手の地平線が紫からピンク、赤と染まり、太陽が昇って来ました。そして、左手の砂漠の海に月が眠りにつきました。そのとき気が付きました。学校で地球は太陽の周りを巡り、24時間で自転していると習いました。でも、頭ではわかっていても、見たことはなかったのです。でも、このとき、この一夜の間に、自分の左手に沈んだ太陽が、夜の間に自分のテントの下を巡り、再び右手から現れた。そしてそれを追うように、月も巡っている。本当に地球は動いている。回っている。やはり一個の天体、物体ではなく、ひとつの生き物、46億年の生命体なのだと感じ、悟りました。それまでのいくつかの自然との対話も、それに加わり、「地球のポートレート」というコンセプトの答えにたどりつきました。

どうしたらコンセプトを決められるか、めぐり合うことができるか、その答えはひとつしかありません。じっくり腰を据えて、自分のフィールドで自然と対話することです。コンセプトを見付けることが優れた風景写真を生み出す極意かもしれません。


ストーリーやコンセプトがないと、単に色が目立つ、奇をてらった内容だけがめだつ、インスタ映えではなく、単なるうっとおしいインスタ蠅になってしまう


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by masabike | 2017-12-16 12:04 | 写真アート | Comments(0)
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